落書帳

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2000 年 1 月 28 日

無意識の力の大きさに驚かされることがある。 特に研究をしたり、文章を書いたりするときに、自分の意識では堂々めぐりを しているのに、あるとき、ふっと壁をつきぬけられるような感覚がすることがある。

研究だとちょっと抽象的だから、文章書きについて考えると、 いわゆる「文章の書き方」みたいなテクニックはほとんど役に立たない。 古くは「知的生産の技術」から、最近では「超XX法」のようなものが あるが、自分にはそういうシステマティックな方法は性格的にできない。 (単に未熟なせいかもしれないが)

文章の断片みたいなものは比較的すぐに思い付く。 しかし、それを書き留めても 実際にはあまり役に立たない(それが実際に後で使われることは稀である)。 それをながめているだけでは、全く書ける気がしない。 それよりも、頭の中で何日間も(通常は何週間も)ころがしていると、 何か書けるような気がして来る。 そうして書き始めるとなぜかどんどん書けていく。

だからといって、短期間集中してその作業を短くしようと思ってもできないのだ。 それでは、学生時代のように時間の区切られた中でやっていた作文は 何だったのか? 無意識をつきうごかすのはたぶんモチベーション、平たく言えばやる気であろう。 試験だと、点数がやる気に直結しているからできたのだろうか。 まあ学生時代は作文の点数は低かったのであまり参考にならないか。 今は時間があるから単に甘えているだけではないのか、と思ったりも する。 確かに締め切り間際は今でも書く能力がアップするような気がする。

こういう日記やら電子メイルを書くのは比較的速い。 何かが無意識に働いている に違いない。 「無意識」を制御する技を身に着ければいいのだろうが、 そういう本はいかにも怪しそうで近付けない^^;


2000 年 1 月 25 日

しばらく英語モードだったので、英語の話。 私の場合特に英会話が苦手である。 もともと、日本語でも会話は苦手で、そのうえ人見知りするものだから、 向こうから話をしてくれるようなタイプじゃないと沈黙が辺りを包み込んでしまう。

そもそもあんまり人と話す話題がない。 というと、妻にも馬鹿にされるのだが、天気の話をするのも白々しいし、 かといってこの日記にあるような話をシラフで話すのはもっと恥ずかしい。 臭い物や下ネタの話はどうか? 相手がついてこない可能性が高いぞ^^;

それから、頭の回転が鈍いせいか、議論とかが基本的にできないのだ。 相手の言ったことに対して、自分の意見をいろいろこねくり回しているうちに、 もう話題は別に移っていたり、相手の言ったことを聞き逃したりする。 それに、私の場合は、たいてい頭の中で作文してから喋らないと支離滅裂になる。 口から先に生まれて来たような人を見ると頭の中を開けてみたくなる。

英語の場合はこれらの問題が極端に出る。 しかしとにかく英語で議論できないことにはこの世界やっていけないので、なんとか 訓練したいのだが、3日坊主でも続けられてしかもお金のかからない方法が ないものだろうか? それとも、お金を出した方が続くかな?

そういえば、高校の同級生の人から時々読んでいるというメイルをもらった。 うれしいような恥ずかしいような。 もっと質をあげたいのだが、 そろそろネタ切れでアップアップである。


2000 年 1 月 20 日

この前はなまるマーケットに出ていた城之内ミサという音楽家の人が言っていた話。 ああいう業界の人は営業時間というものがない。 特に自宅で作曲とかしていたら なおさらだ。 だから、「営業中」という看板をつけておいて仕事を始めるとメリハリがついていいと 言っていた。

研究者も似たようなところがある。 仕事場に来てもそれが営業中というわけではない。 机に向かっても web の browsing をしていたり、ソフトのインストールとか、 ゲームをしたり、このページを書いたりするのは営業時間外の仕事である。 そんなことをしている間に 1 日過ぎてしまうことも少なからずあり、 彼女に習って何かメリハリをつけたいとは昔から思っていた。

というわけで私も看板を作ろうかなー、などと考えている。 意志が弱いので果たして効果があるかどうかは謎だが。


2000 年 1 月 17 日

「五体不満足」という本で有名になった乙武洋匡という人がおしゃれ関係に 出ていたので今日はそれについて。 私はこの本は軽く立ち読みした程度なので あまりよく知らないが、肉体的なハンディを抱えながらやたらとポジティブであり、 強い。 自分は五体満足でありながらとてもあそこまでにはなれない。 すごいなー、やっぱり人間は精神力だなー、と思った (まあ彼の場合は見た目のすごさ程には体が不自由ではないようだけれど)。

しかし、すると、精神にハンディを持った人はどうしたらよいのだろう。 心の病や心の傷はぱっと見よくわからない。 しかし実はこちらのほうが現代の社会を生きる上では重要かつ深刻な 問題なのではなかろうか。 トリイ・ヘイデンの読みすぎか? それとも自分が五体満足だからこんな風に思うのかな?


2000 年 1 月 14 日

妻が風邪でダウンしているのだが、どうやら私にも飛び火して来たようだ。 まだそんなに症状は出てきていないが。 子供一人元気で容赦なく攻撃して来るので全然休まらない。

ところで私はやたら涙もろい。 小さい頃からいじめられっ子で泣き虫だったけど、 映画やテレビ、本を読んでも結構涙が出て来る。 ほとんど記憶にはないが、ハクション大魔王の最終回で魔王が壷に帰ってしまった ときは大泣きしたらしい。 フランダースの犬をはじめ、ケロッコデメタンですら かなり泣いたなー。

子供ができてからは、昔はそうでもなかった子供ネタで涙が出る。 しかし、身近な出来事ではほとんど(今はあんまりいじめられないしね)、涙は出ない。 涙腺を閉める働きが弱いのかも知れないが、まあ結構いいストレス解消になっている。 妻には結構冷やかされている。 泣きの場面になると、私の顔を見るのだ。 すると大抵の場合もう泣いている;o; 妻はかなり泣かない体質に育ったらしい (といっても人に先に泣かれるともう泣けないと言っていた)。

さて、来週から RWC シンポジウムやら外人の相手やらで忙しくなるので、 これを書く暇もなくなるかもしれない。


2000 年 1 月 13 日

どういうわけか今年の抱負通りほぼ毎日のように更新していて自分でもびっくり である。 数少ない読者の一人である西森君にも喜んでもらえて幸いである。 しかし世の中そう甘い物ではないはずで、これもそう長くは続かない だろうと思っている。 その力の抜けた感じがまたいいんだなー、とナルシストに なってみたりする。

この手の文章は広いネットでも溢れ返っていて、特に最近みつけた 雑文リンク集はなかなか気合いが入っている。 これだけあると、いちいち読もうという気は起きないが。

どうも自分の文章を読み返してみると、一般論はあんまりおもしろくないようだ。 文章が下手なのにそういう高尚なことをやろうとするから失敗するので、 もっと本当の個人日記のように身近なことを書いていった方がいいような 気がしてきた。

そこでいきなり身近な話題。 現在愛車が入院中である。 先月スキーに行った帰りに常盤道で前を走っていた トラックが跳ねた石がフロントガラスに当たって傷ができてしまった。 本を立ち読みしたところでは、数千円の補修キットみたいなのも売っているが、 素人には極めて難しいとのことでディーラーに持って行くと補修は 2 万 5 千円くらい するらしい(交換だと 15 万!)。 放置するとヒビが全面に及んで危険らしいので、 入院させることにした。 こういうのは自然災害でどうしようもないものなのだが、 なんとなくそのトラックにやられたという気がしてしまうのである。

おまけ: 過去の日記のタイトルリストを作ってみました。 ほぼ自分で見直す ときのためですけど。


2000 年 1 月 12 日

へそまがりなのか卑屈なのか、巨人/大鵬/卵焼きみたいに(古いか?)、 「一番人気」というものが嫌いだ。 どうしても、陽の当たらないものを好きになってしまう。 好きになったものが、一躍脚光を浴びて人気ものになると、その瞬間は うれしいのだが、すぐ次の瞬間にはもう色褪せて見えてしまう。

「なんでこんなにすごいのに人気がないの?」と思いながら、一旦人気が出ると もう興味がなくなってしまう。 これはとても精神衛生上はよくない。 しかし、自分自身の姿を投影しているのかも知れない。

基本的に世の中はそうではなく、人気が人気に輪をかけていく。 同じような人/物でも、少しのチャンスやタイミングの違いで全く人気が 変わってしまう。 そこに不条理を感じるのかも知れない。 本来物や人の属性は高次元なのに、人気と言うのはそれを一次元に落して しかも(物理で言うところの)低温の状態にしているのである。 世の中氷河期である。 なんとかもっと温かくならないだろうか。

ちょっと話が違うが、経済現象も今やアメリカそして情報産業のバブル期である。 少数の企業だけ(人気とはちょっと違うけど)が生き残る世の中だけだから、 企業合併でどんどん大きくなる。 業界ナンバーワンの何何が誕生しました、 みたいなニュースを何度聞いたことか。

このバブルがいつはじけるかとはらはらしながらも、止まる勢いはない。 アメリカは日本のバブル崩壊の影響をそれほど受けていないが、日本はアメリカの バブル崩壊の影響をもろに受けそうで心配である(日本だけじゃないか)。 それに、ファッションブランドすら企業合併競争していると聞くとなんだか 世の中変だなーと思う。


2000 年 1 月 7 日

親戚などにたまに会うと、「どんな研究をしているんですか?」と聞かれる ことがあるが、困ってしまう。 たいていすごく素人の人なら 「コンピュータ関係です」とか、もう少しわかる人なら「人工知能関係です」 とかいって後はブツブツとお茶を濁してしまう。 こんなことじゃいかんなーとは思うが、何年経ってもこの問題は解決しない。

別に雑談なんだから、いい加減な話をすればいいと思うのだが、何かいい話は ないものだろうか? 「人間の柔軟な情報処理能力」とか言っても、ふつうの 人にはあまりピンとこない。 自分がいかに素晴らしい情報処理能力を もっているかを自覚していないからだ。 それに比べて超人間的な研究(素粒子だの 宇宙だの、πの計算の世界記録なども入る?)は説明しやすい、 というか驚きを与えやすい。

ちょっと話が飛躍するが、話を説明する時に単にわかりやすいだけではダメで、 そこには驚きを与えることも必要だということが最近やっとわかってきた。 世の中には偽の驚きというかハッタリみたいな話が多いので、そういうのは 毛嫌いしてきたのだが、結局自明と思われたらおしまいなので、自明でない 部分はちゃんと強調した方がいいということである。 しかしまだ人生経験が 浅いと言うか、能力が乏しくて、ハッタリかますくらいしかできないのが 現実である。


2000 年 1 月 6 日

子供の学力が低下しているらしい。 どういう基準で測ったかよくわからないので この事実自体が好ましいことなのか、そうでないのかははっきりしないが、 体力も含め、低下の原因と思われることをいくつか考えてみた。 ちょうどこの前発掘あるある大事典でも似たようなことをやっていたが。

一つは、今や脳や体をそれほど使わなくても十分生きて行ける時代だから ということである。 特に記憶する必要性と移動のための運動の必要性は たぶん昔に比べればずいぶん減ったように思う。 なんでも調べられるし、 交通も便利になった。 使わなければ衰えるのが必然である(でもこの前の あるあるでは子供の記憶力は結構よかったな。 それに大人でも常日頃 記憶力を働かせている人達は記憶力が強かった。)。 しかし、判断する能力や段取りを考える能力は逆に増えたような気もする。 これらは学力測定の中に入ってなかったんじゃないだろうか?

もう一つはいわゆる学校の勉強に対する目的意識の欠如みたいなもので、 何でこんなこと覚えなくちゃいけないの?というのを子供は感じている はずで、それは昔からあまり変わってないように思う。 しかし昔は学歴社会で、勉強すること自体が目的だったから学力低下の 原因にはなっていなかったのかもしれない。

特に高校までは、学力と言うと、記憶に偏ってきたような気がする。 国語と言えば漢字の暗記だったし、 社会と言えば歴史の年号やらの暗記だった。 本来、国語は生活していく上で必要な言語能力を鍛えるはずのもので、 漢字の暗記はそのための補助手段 でしかない。 話し方や書き方をまともに習った記憶がないのはとても残念だ。 英語も高校では読み方や文法に比べて英作文の授業はとても少なかったし、 作文技術を習った気はあまりしない(むしろ和文英訳専門だったような)。 歴史を学ぶのは、その中に社会のダイナミクスに関する知識や 人間の犯しやすい過ちなどの知恵が含まれているからで、年号に大きな意味が あるとは思えない。 どれくらいの時期にあったかを知ることは時に有用だが。

(単純な)計算能力についてはよくわからない。 スーパーで買物するときに役に立つような気もするが、 一方で数学者には計算が苦手な人もいるという話も聞く。 自分自身も計算よりは、証明をしている方が「考えている」という気になって 楽しかった気がする。


2000 年 1 月 5 日

今日は査読(つまり投稿された論文を載せていいかどうか判定する作業です)について。 実は私の仕事のうちのかなりのパーセンテージを占めていると思われるのだが、 これは完全にボランティアである。 日頃苦労しているのでかなり愚痴っぽくことが予想されます^^。

査読をして得をすることとして思い付くのは、 (1) もし素晴らしい論文であった場合それをいち速く 読めることと、(2) 論文を真面目に読むことを強制されるので論文の読み方が (ひいては書き方も?)うまくなることだ。 しかし、実際に得したと思ったことはほとんどない。 最初のポイントについては 特に工学系の論文は分野が幅広く自分の専門と離れていることが多いことと、 もし自分の専門に当たったとしても素晴らしい論文というのはほとんどない。 それに、素晴らしい論文なら、それ以前に国際会議やテクニカルレポートで ネット上で取ってこられるのが普通だから、あまりメリットはない。 2番目のポイントについてはよくわからないが、私のような下っ端には それほど参考になるような論文は来ないような気がする。

論文を読むのは遅い方なので、一つの論文にかなりの時間と精力を必要とする。 いやなら査読委員をやめればいいのだが、学会も互助会的なところがあるので なかなか難しい。 聞く所によれば、会費滞納で学会を除名になった人でも 査読委員はやめさせられなかったという嘘のような話がある。

というわけで、(特に工学系の)査読制度はなんとかしないといけないと思うのだが 果たしてどうするのがよいのか。 abstract or summary で判定というのではダメか? full paper 渡されるとどうしても detail までチェックしてしまうから、 査読者には 1 ページくらいのいくつか必要事項を書き込むようなタイプの summary だけを送るというのがいいような気がする。 と、こんなことを書いても 世界中で査読システムは生き残っているし、summary の査読だとその論文誌の 質が疑われるから結局だめか。 ということで、最近査読の催促が来て ストレスがたまっているので愚痴ってみました。


2000 年 1 月 4 日

今年もいつもと同じように年が明けた。 2000 年問題も少なくとも私に関しては何事もなく過ぎ、まずは一安心。 この落書帳を見てくださった方、今年もくだらない内容にどうかおつきあいください。 で、今年の抱負は、「この落書帳のページをできるだけ頻繁に更新すること」 にしておこう。

本当は独立行政法人化に向けて、博士論文を書かなくちゃいけないんだけど、、、 ところで論文博士ってどういう手続きで取るんだろうか? 知合いの先生に取らせてくれーって頼むのかな? まあとりあえず今年の抱負第2段に入れておこう。 いずれにしても、もうちょっと今年は真面目に研究しないと。


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