落書帳

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2001 年 6 月 28 日

最近は研究所も大学も評価だのなんだのといろいろとうるさい. しかしながら研究者を評価するというのは難しい話である. まだこれはまとまった考えではないがとりあえず書いてみよう.

研究者は通常よりは無欲な人が多い. 特にお金については,安月給にも関わら ず研究者を選んでいるわけだから,とりあえず給料を多少上げたり下げたりする のはこういう人たちにはあまり意味がないと思われる. 一方,研究をネタにベンチャーを起こして一儲けしようとか考えている人たちは, お金に対する欲求は強いがどうせ外に出ていってしまうのだからその人たちの給 料をあげても意味がない.

つまりお金の問題ではない(たぶん). 研究者は,有能な研究者であると認め られることが重要なファクターではないだろうか. すると,それは学会なり社 会なりの場で暗黙裡に定まる評価というのがあり,それで十分にも思える. 自分の属している組織の中の評価を受けるために長々とした書類を書いて評価を 受けるというのはかなり不毛にも思えてくる. アメリカ流の競争原理の導入ということだろうが, 競争相手は組織の中ではなく外にいることが多いと思う.

評価制度の導入は,のんびりで自由な雰囲気のよい研究環境を破壊する危険性を 持っている. よい研究所ではばりばり研究している人たちもいるが遊んでいる 人たちも多いように思う. 要はそのバランスで,評価制度は後者の人たちをだ めにしてしまうかもしれない. まあ評価は今後避けて通れない道ではあるようだからあまり気にせずやっていく しかないのかもしれない.


2001 年 6 月 26 日

世の中優れたものが流行るとは限らない. まあこれは歴史的な流れの生み出す ダイナミクスとか,営業とか経営の力関係とか,インフラなどの周辺状況など, いろいろな要素があるから仕方のないことではある. 有名なところでは Qwerty vs Dvorak のキーボード対決,VHS vs βのビデオ規 格対決,Windows vs UNIX とかがある. まあ最後のに関しては UNIX が盛り返 しているともいえるけど(Mac も UNIX になっちゃったもんね)

キーボード対決といえば,携帯の入力インタフェースはかなりひどいと思うのだ が,もはやあれがデファクトスタンダードという感じである. あれもうまく設計す れば平均ストローク数をかなり減らせるはずなのだが,世の中の人はもうあれに 十分適応しており,人間の適応能力のすごさというのを思い知らされる. マンマシンインタフェースの研究をしている人は無力感を感じるのではないだろ うか.

まあ,まだ規格になってしまっているものはいい. IBM-PC 互換機は,よかれ悪 しかれ,どんな弱小のパソコンメーカでも一流メーカと全く遜色のない製品を可 能にした, というか自作でも一流メーカーでも基本的には同じである. それに対して遅れているのは車関係の規格である. 最近はメーカー内では部品 の共用とかも進んでいるようだが,メーカー間で規格が合うのはバッテリーと タイヤくらいだろうか.まあブレーキやサスペンションなんかも少しはあるかな? 車だってパソコンだって似たようなものだからできないことはないはずである. これが実現すれば,エンジンはホンダ VTEC, ボディはトヨタの何々というよう に好きなように選んで好きな車に乗れるようになるはずである. セルシオのボディにヴィッツのエンジンとか,その逆とか,世の中おもしろい 車だらけになると思うのだけど. そのうち「車の自作」とかいう本が出たり して...


2001 年 6 月 25 日

小泉さんはすごい人気だが,こうやって急に支持率があがったりするのも日本人 らしい現象ではある. 私自身は特に好きでも嫌いでもないが,この政治バブル がはじけないことを願うばかりである.

ところで今日は死というテーマを取り上げてみる. 少し前に 「課外授業ようこそ先輩」というNHKの番組で嵐山光三郎が死をとりあげて小学生に 芭蕉の無常観と死とを関連づけて授業をやっていた.

子供の頃というのは特に親の死に対する強い恐怖感のようなものがあった. 子供ができると今度は子供の死というものを強く恐れるようになった. 例の小学校で起きた殺人事件とかをみるとどうしても自分の立場に投影してしま う.

一方,自分の死というのは少し違う存在である. 自分が死について考えるのは むしろ何のために生きるのか,このまま死んでもいいのか,という生というもの への疑問,執着である. 少し前のニュースで,女子中学生か高校生が「死ぬ理 由もないが生きる理由もない」と書き残して自殺してしまった. 別に生きるのに目的がなくてもいいじゃないかと思うのだが,なかなか目的なし に生きるというのも生物の本能が許してくれないのかもしれない.

ところで,何度も書いていることだが,たくさん死のうと一人だろうと, 死んだことには変わりない. だが,社会はショッキングなものだけに焦点を あて,ヒッキーに歌を捧げられたりもする. 人間は社会的な動物だからそういう扱われ方をするのも仕方のないことだろうが, 何か違和感を感じることもある. うまく言えないが,ショッキングに死んだ人は何か得をしているような...? でも死んでしまえば元も子もないわけだから損も得もないか.

よく「心の中に生きている」という言葉を聞くが,私にとって生きる実感とはまさに 他人の脳細胞の中に自分自身を焼き付けることである. 人工知能の研究をしているからこんなことを考えるのかもしれないが, たとえばこの日記を自動的に更新するシステムが私そのものであるという チューリングテストに合格するならば私は永遠の命を手に入れたという気になる かもしれない. 一方,生き生きとした日常がなければこんなものあってもしょ うがないと思う気持ちもあり,この件については一筋縄ではいかないのだ.


2001 年 6 月 22 日

メインで使っている計算機の移行を少し前からはじめているが,なかなか大変である. 今まで使っていたマシンは 1999 年の同じ頃から使っていて,途中マザーボード が死んだりといろいろトラブルを抱えながらもほぼ 2 年間使ってきた. 計算機は長く使えば使うほどいろいろ手が加わって移行が難しくなる. かといって,ハードの進化が速いので移行は避けられない問題であり,どうせ 移るなら早め早めに移った方が何かとしがらみが少ないというメリットもある.

前も記憶メディアの話を書いたが,計算機環境も次への移行が楽になるように と工夫しながらやらないと大変である. 繰り返しになるが,使いやすいように チューニングを加えすぎると移行が大変になるというジレンマがあってバランス をとるのが難しい. 計算機メーカーもこの辺りのことを考えてシステム設計 して欲しいものだが無理な注文だろうか.

計算機の中ではケース,マウス,キーボード,フロッピードライブは 基本的にそれほど変化していないから長期間もつ. CPU やらマザーボード, メモリ,ハードディスク,ビデオカードなんかはどんどん進化していて ほとんど消耗品である. 消耗品が高くて耐久財が安いという構造になっている ので,部品のバージョンアップをするのも新しいマシンを買うのもほとんど 値段が変わらないということで,これがゴミを増やす原因になっている. 予想された結果ではあるが,パソコンを売るだけ売って,リサイクルのことは ほとんど考えてこなかったメーカーが,今後売れ行きが伸び悩んでリサイクルが 義務化されたときに対処できるだろうか.

少し大風呂敷を広げすぎたが,UNIX を使っている分にはソフトのバージョンアッ プはそれほど気にする必要がないので楽である. Windows はハードウェアサポー トや初心者へのしきいの低さなどはいいのだが,あの重くて不安定な OS に いつまでつきあわされるかと思うと頭が痛い.


2001 年 5 月 28 日

独立行政法人化して新しい組織になった. いろいろゴタゴタが収束してから更新 しようと思っていたのだが,どうやらしばらく落ち着きそうにもないので書いて しまおう. なぜ書く気になったかというと,昨日あるある大事典で「3日坊主」という ネタをやっていたからである. 3日坊主を制するには3日坊主とうまくつき合うこと という名言を得て,まさに3日坊主の繰り返しであったこの落書きを復活させようと いう気になった.

3日坊主の対策としては,気合いを入れすぎてドーパミンを出しすぎないこと(落差が よくないらしい). それから,上にも書いたがやる気のリズムが 3 日後とに上がり下がり するようなので,やる気がない時はやめるということのようである. まとめると,ネタを絞り出すように書くのはやめて,自然と書きたくなるのを待つ という態度がよいらしい. ということでいろいろ書きたいこともあるのだが,今日はこの辺にしておこう.


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